国立高専卒の技術屋が米国弁護士になった経緯:

 2009年7月

私は1980年国立明石高専機械工学科を卒業後まずエンジニアとして社会人スタートしました。 M社においては、車両電装品の実験並びに設計業務に従事しておりました。 たまたま設計しておりました電装品が欧米への輸出向けであったということで新規受注が決まる前には米国の車両メーカーの品質管理課および営業課の人が工場を訪問してきておりました。 当時は語学にはほとんど縁のない者でしたが、これからは英語を自由に使えてこそ、将来のエンジニアの姿があるのではという思いがふつふつと芽生えていました。

結婚して約2年後ではありましたが、奮起決断し、26歳(1986年)でM社を退職しオハイオ州のアクロン大学に編入することにしました。 当時英語がほとんどできない私がM社を辞めて米国に留学するというと両親・友人のほとんど全てが反対でしたが、妻のみが賛同してくれました。 当時成功に対する全く何の保証もないこの若輩者の決断をサポートしてくれた妻には今も感謝しています。 妻にはとにかく1年して目処がたたねば帰国し、また何でも仕事をすると約束し、最初の1年は私のみで行くことにしました。 最初は語学力のなさ故生じる意思伝達の困難さと異文化に馴染むのに苦労しましたが、M社での仕事の厳しさと比べると、全米の平均的な難易度の大学であるアクロン大学で、特に技術系科目の単位を取ることは大したことではなく、2年目には妻と共に貧乏学生生活を開始しました。 約3年後に学士を終了し、約5年後の1991年に機械工学の修士号を取れました。 (日本では)時代はバブル崩壊の寸前に来ておりましたが留学生に対する就職の門戸は十分に広かった印象が今でも鮮明です。 取り敢えず、「技術」と「英語」が使える仕事に従事することを第1と考えていたところ特許事務所の外国出願業務という求人を朝日新聞の求人広告欄に見つけ、そこで早速面接を申し込みました。 

1992年にKTMR国際特許事務所での勤務を開始しました。 同事務所で米国特許出願を主とする外国特許実務を担当することになりました。 ここでKMさんという外国出願実務のプロに出会いました。 幸いなことにドイツ留学経験のあったKMさんが直属の上司であり、また、当時事務所で最も輝きのある存在でありました。 しかし当時約100名の所員のいる事務所で弁理士は3名しかいず、また、KMさんは弁理士ではなかったので、外国出願実務をやろうとしていた当時の私は弁理士になる気は全くありませんでした。 また欧米の現地事務所との実務におけるつき合い、さらには表敬訪問してくる諸外国の特許弁護士との、交わりの中で、特に米国特許弁護士に仕事と人生の豊かさを感じる人が多くいました。 当時30歳半ばの私はこれら先輩米国特許弁護士のように仕事をしたいと思うと共に彼らが日本語を話せないことに起因する日本の顧客とのコミュニケーションの質と効率の悪さを何とか私が埋めれないものかと思っていました。 即ち、私自身が米国弁護士になればやたら複雑そうにみえる判例法に基づくクレーム解釈、及び、米国特許訴訟に関する各種質問に日本語で分かり易く回答できるのではという思いが生じてきておりました。

諸事情により1996年から現在の職場、SKY特許事務所で勤務を開始することになりました。 ここでまず驚いたのは起案者の多くが弁理士試験のための勉強をしているということです。 後になればそれが平均的な特許事務所の姿であることに気付きました。 ということは資格者か否かということが最終決断のときには外国出願実務においても非常に重要であります。 しかし当時の弁理士の多くは日本の特許法の専門家ではありますが米国特許あるいは欧州特許に関しては専門家のレベルに達しているようには見えませんでした。 しかし時代は既に外国出願の専門家も必要としているということを顧客である企業知財部よりひしひしと感じておりましたので、米国のパテントエージェント(U.S. Patent Agent)の資格を習得することを考え始めました。 事務所の理解と協力の基に1999年に同試験を受験し、合格することができました。 

その後、米国特許出願の専門家として米国・欧州を含む英語圏の出願の実務に携わりましたが、約1年くらい過ぎたころに法律知識の幅を広げたいという気持ちと30代の半ばに思っていた米国特許弁護士になって日本の顧客に質の高いサービスを日本語で平易な言葉で提供できるようになりたいという気持ちが浮上してきました。 しかし3年間のロースクール(米国:JD)に行くには事務所及び家庭の事情(娘が8歳のころでした)に鑑み無理と判断しました。 しかし日本で夜間の法学部に通い、その後1年間のロースクール大学院(米国:LLM)に行き、NY州の弁護士試験を受けるという方向であれば比較的可能性はあると思い、2001年より神戸大学の法学部(夜間)に通うことになりました。 夜間法学部は夜の6時から始まり3時間の講義です。 週に3日くらいを平均に約4年間通いました。 仕事を早めに終えて講義に出て、講義ノートを電車で復習し、かつ、その日の残務を家で少し処理し、仕事の遅れを取り戻すというような日々でした。 少しきつかったですが、振り返ると充実した日々でした。

神戸大学の夜間法学部を2004年に終了し、事務所の理解と協力の基、Nixon Peabody法律事務所に駐在し、所定の仕事を継続しながら2005年からジョージワシントン大学(GWU)ロースクールの大学院のLLMプログラムに参加することになりました。 GWUロースクールの大学院の知的財産権のプラグラムは全米で1,2位を競うということは聞いていましたが、そのプログラムの質は驚くに値するものでした。 その一例を挙げますと、まず米国特許法という科目は連邦巡回区控訴裁判所(CAFC)のレーダー判事が担当され、さらに、CAFCという科目があり、これもレーダー判事が担当されます。 特許に関するCAFCでのオーラルヒアリングがあれば傍聴できるように段取りまでしてくれます。 さらに、CAFCへの控訴手続きに関してはFinnegan事務所のパートナーのDunner弁護士が担当され、同氏はCAFC設立1982年の前のCCPAの時代から約40年に渡り、知財紛争の控訴を担当している人です。 ここで知財に関してはこれ以上にないであろうという充実したプログラムで学習できる機会が与えられたわけですが、この素晴らしいプログラムも、その後の目標であるNY州弁護士試験合格というものとは殆ど無縁でありました。

2006年6月にLLMプログラムを終了し、職場復帰し、その後、通勤電車と夕食後の約2〜3時間と土日でNY州弁護士試験の必須科目(約23科目)を学習しており、2008年7月の試験に合格しました。 その後、2009年3月弁護士倫理試験をサイパンで受験し、2009年6月にNY州、州都Albany宣誓式を終えました。 

30代半ばでもった目標、「日本の顧客に米国弁護士として特許出願および特許関係の紛争に関する質の高いアドバイスを平易な日本語で提供する」を、その後の実務経験及び判例知識の蓄積とを踏まえて、これから実行してゆきたいと思っています。

結び  

(1) US Patent Related  (2) Case Laws  (3) Self-Study Course (4) NY Bar Prep (5) LINKS Home